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新生西武球団が台風の目となった。福岡野球倶楽部(73−78、スポンサーシップは太平洋クラブ〜広済堂)期と異なり、資金的にも潤沢、本拠地も埼玉に移転することからチーム改造に着手した。 若手の中心選手である真弓、若菜の代価を払って田淵を獲得。更に野村、山崎らベテランを集める一方で、竹之内、基ら福岡色の強い選手を放出。 前年のドラフトで森、また巨人との争奪戦の末自由競争で松沼兄弟を得ており、新人を含めたこの年の補強が3年後の日本一の原動力となったのは疑いない。 阪神・小津社長(本社専務)に深夜のトレード通告を受け、記者会見で男泣きした田淵だが、結果的には移籍は正解で、阪神部屋の横綱から西武のスターに変貌を遂げた。 一方で、日本一ヤクルトはマニエルを放出。「走れない、守れない」のマニエルを広岡監督主導で切った訳だが、代わりに米大リーグから喚んだスコットが 予想通り打てないのを後目に近鉄でDHに廻ったマニエルは顎を骨折しながら本塁打王に。広岡監督はシーズン半ばでヤクルトを去った。 マニエルは81年にヤクルトに復帰するが、足腰の衰えが顕著で1シーズンで退団。ヤクルトは松園前オーナーの方針で伝統的にトレードを忌み嫌っていたが 偶に行うと失敗するケースが多い。 金田監督の突然の辞任でロッテは山崎、渡辺秀、金田弟ら金田色の強い選手を放出。山崎は当初は安田、替わって西井、会田らとの交換でヤクルト入りが確実視されていたが西井の拒否で流れ西武が浚った。また「空白の1日」問題でドラフトをボイコットした巨人は40歳の石井茂を補強したのみ。小林を阪神に譲る羽目に陥り、結果5位に沈んだ。 最後に、翌80年に3球団目のロッテでプロ12年目の初安打、初本塁打を達成した市橋秀彦の名を記しておこう。その執念には脱帽する。 |