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77年9月、シーズン中終了まで2試合を残した時点で南海・野村監督兼捕手が沙知代現夫人との結婚問題等で解任。江夏・柏原両選手が球団に移籍を求めて野村のマンションに籠城するという異常事態に発展した。 江夏はヤクルト・大杉との交換が一端はまとまった後に松園ヤクルト・オーナーの反対で頓挫、結局広島への金銭譲渡に落ち着いたが、柏原は既に一兵卒として野村を受け入れたロッテ入りを主張し、越年交渉の末渋々日ハム行きを了承した。 南海はこの戦力ダウンを挽回できず78年は広瀬新監督の下、前年の2位から最下位に転落。以降88年迄5〜6位を彷徨いダイエーに身請けする端緒となった。 全般としては移籍選手は少なかったが、当初は平松との交換も噂され、8年振りの里帰りで最多勝に輝いた野村収は5年後には更に阪神へ。史上初の対12球団勝利投手となる。 ヘルメットを被って守備に就く好守好打の内野手シピンがキャンプ中に巨人に譲渡されたが、球団方針で「ライオン丸」のあだ名の所以となった髭を剃ると仲々男前で、19歳のジゼル夫人と再婚した。 また72試合出場で25本塁打という驚異的な成績を挙げながら奇行ばかり話題となった中日・デービスがクラウンへ。奇行は治まったが西武への球団売却で1年で帰国している。 なお上田卓は打撃投手兼サブマネージャーとして南海に採用後、6月に現役登録された(月旧一氏ご指摘)。 |