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最下位長嶋巨人がV9左のエース高橋一、長嶋批判の反逆児・関本らを放出。迎え入れた張本は1毛差の打率2位、加藤初は15勝で見事V1に輝いた。後から見れば、張本は日ハム側に放出の方針があったからだろうが、太平洋はよくぞ加藤初を献上したものと理解に苦しむ。が関本は失意の二軍落ち、玉井は前年3完封でその時点では対等との判断も妥当か。 しかしON砲に代わるOH砲と謳われ「王ひとり?」と誤解する向きはなかったのだろうか。 吉田体制2年目を迎える阪神も積極的にトレード戦線に参戦した。元大リーガー・マッシー村上を1年で日ハムへ譲る一方で、太平洋から来た無名の加藤博は後年、吉本興業入りを真剣に取り沙汰される迄の「スター」に成長している。 さらに年明け、前年から球団一丸となって否定を繰り返した江夏放出が漸く実現。結果、江夏は南海で救援に転身、阪神も獲得4選手のうち長谷川を除く3人が主力として長く活躍を続け、一人は参院議員に、一人は審判を殴って無期限出場停止(のち解除)と話題を振りまいたのだから算盤は合っているだろう。なお、当初は佐藤正(神・投)、門田純(南・投)を加えた3対5の交換と発表されたが、佐藤が移籍を拒否し引退したため2対4となった。 中日はわざわざ76年から後楽園に導入される「人工芝要員」と名打って太平洋・梅田を獲得したが、対策空しく77/8まで怒濤の人工芝19連敗とは皮肉。梅田に責任はないが。 巨人で終ぞ芽の出なかった元ドラフト1位の島野は阪急へ。ブレービーを経てネッピーの中身として操演の第一人者に。人生は何が幸いするか分からない。 長嶋の後継者として巨人に招かれ2年でライオンズに復帰した伊原は常勝西武の3塁コーチャーに。巨人での経験が糧になったという。 張本放出で旧東映色排除が一段落した日ハムは三原球団社長の嘗ての教え子、近鉄・永渕、服部を獲得したが、返って交換相手の阪本が渋い内野手として長く現役を続けた。永渕は新人の際は投手兼外野手、2年目に首位打者になった天才だったが、数ある「あぶさん」のモデルの中でもこれぞ本物と言われる酒豪。衰えは早かった。 また3年のブランクを経て広島に復帰した西本明は、聖(巨-中-オ-巨)の実兄。移籍先の巨人で右手小指を切断し一旦は選手生活を諦めたドラフト1期生の浜村は古巣ライオンズに復帰した。 なお前年オフ、太平洋は大洋の現役外野手である江藤を新監督に指名、河原投手との交換という形で獲得したが、その返礼として1年経って田中章を追加供与した。75年シーズンには、荒くれ者を集めて「山賊集団」という驚異のネーミングで売り出した江藤太平洋だったが、米ド軍、ジ軍ほかの元監督、レオ・ドローチャー新監督招聘を発表、健康問題で来日が叶わず鬼頭コーチの昇格で収まったが、監督兼選手として山賊の長を務めた江藤は、一旦は打撃コーチ兼選手降格が発表された挙句年末に退団。70年途中に中日を放出されてから永田(ロッテ)、中部(大洋)、中村(太平洋)と名物オーナーの下を転々としたが最期は古巣の金田ロッテが引き取った。この年限りで引退するが、後に野球体育学校を主催し異彩を放っている。借金は返済できたのだろうか。 |