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前年のドラフトで巨人、ヤクルトを希望しながら大洋に1位指名された荒川尭は大洋へ入団(10月)し、12月には金銭譲渡。この年からサンケイから経営権を全面的に委譲されたヤクルトが養父の博ともに獲得する運びだった。 いわば78年末の江川事件の原型だが、三角トレード自体は開幕後であれば合法と鈴木セ・リーグ会長(当時)も従前に認めていたはずで現に米球界では日常茶飯事。日本人の判官贔屓が非情な結果を招いた。 「早稲田史上最高の打者」はこの騒動で大洋ファンに殴られた怪我が元で左目の視力が低下。晩年には見える右目を活かすためスイッチ転向を図るなど苦難の挙げ句に5年で引退に追い込まれたのは球界の悲劇だった。荒川が引退後、スポーツ用具店を経営し成功したのが救いだろう。 一方、慶応の広野は巨人へ。中日をわずか2年で放出され西鉄では「黒い霧」で球団が壊滅。腐っていたところに巨人の5番打者候補として迎えられた訳だが、平松のシュートを右手親指に食らい再起は果たせなかった。それでも史上3人目の代打逆転満塁本塁打を放つなどかつての輝きの片鱗を見せている。 高橋明も西鉄で14勝をマークするが、外野にもう一人の高橋明が。このケースは後の「佐藤文/佐藤男」(阪神)、「田中幸/田中雄」(日ハム)のように名前が2文字の場合は分割する手段もあるが、あわれ若い外野手の方は「高橋外」と登録された。 またスペンサーが4年振りに守備コーチとして復帰。以前にも増した巨体を揺るがし3塁コーチャーを務める内に現役としても登場している。 総じてトレードは少なかったが、各球団が支配下選手の20%を供出しウェーバーで選択する通称・トレード会議が初めて実施され13人が移籍した。ところが鏑木、北角、小泉といったそこそこ名のある選手も活躍出来ず、逆にロッテは予想外の里見を指名され1年後に交換譲渡で取り戻すなど試行錯誤も見られた。 |