58オフ〜59シーズン中

選手 (団・守)選手 (団・守)備考時期
後藤修(巨・投)   (近・ ) 
川上義(巨・外)   (近・ ) 
内 藤(巨・内)   (近・ ) 
岩 下(巨・外)   (国・ ) 
岩本尭(巨・外) 金銭(洋・ ) 
大 崎(神・投) 金銭(近・ ) 
河 津(神・内) 金銭(映・ ) 
河 合(中・捕)打 越(西・外) 
友 川(洋・外)自契→(国・ ) 
西 原(西・投)   (広・ ) 
山口慶(西・内)   (広・ ) 
戸 川(南・投)   (映・ ) 
原 田(急・投)自契→(南・ ) 
林義一(急・投)   (近・ ) 
和 田(毎・投)   (神・ ) 
丸 山(毎・捕)   (映・ ) 
水 上(映・内)自契→(神・ ) 
榎 原(近・投)自契→(南・ ) 
永 井(近・投)   (広・ ) 
青 木(近・投)   (広・ ) 
石 垣(神・捕) 金銭(南・ ) 59/1
石川進(元映外)復帰→(毎・ ) 
藤 重(元南捕)復帰→(神・ ) 
 10年選手権利行使
田 宮(神・外) → (毎・ ) 
内 藤(巨・内) → (近・ ) 
杉山悟(中・外) → (国・ ) 
青 田(洋・外) → (急・ ) 
阿部八(急・投) → (西・ ) 
米 川(映・投) → (西・ ) 
 千葉茂が巨人二軍監督から近鉄監督に転出。千葉−新田ラインの後盾だった元警察長官、関東大震災時の朝鮮人反乱取り締まりで名を馳せた品川球団社長も退陣。ここに川上の水原後継が確定する。
 千葉を迎えた近鉄球団は沿線の志摩の産物から取ったパールズの愛称を「猛牛」千葉にあやかりバッファローと改称する。がコーチ陣を含め巨人で芽の出ない中堅を大量にかき集める千葉の作戦は生え抜きとの軋轢を生み、結果3年で退陣。千葉はその後ユニフォームを着ていない。

 10年選手の権利行使の形態が6件あるが、トウの立った面々が大半で前所属球団とも円満にフリーとなり自ら移籍先を探したケースが多い。 中では西鉄へ移った左腕・阿部八郎は三原魔術の一翼を担って対左打者専門に登板。「ワンポイント」のはしりとなった。
 その三原監督だがオフに大洋移籍が発覚、日本一監督を失う西鉄球団が面子に懸けて引き止め、移籍は一年遅れることとなったが、 三原が西鉄入りした際、ともに下野する直前で巨人に戻った青田を事前に解雇(形式上は円満退団)するなど受入体制を 整えていた大洋側は森社長が現場復帰する羽目に陥り、予定通り最下位で翌オフに三原新監督を迎えることとなった。

 唯一大事となった首位打者・田宮のケースは10年選手制度史上、最大の事件となった。 ボーナスを巡り阪神・戸沢球団社長の対応に憤慨した田宮は近鉄、東映ら激しい争奪戦の末大毎に。江夏、田淵ら阪神「放出」の歴史の原型であり、戸沢氏は後の小津氏の原型だろう。

 また川上の控えで雌伏10年。その川上の引退と同時に国鉄に移った岩下は見事ベストテン入りし溜飲を下げた。
前年城戸との交換が成立しなかった河合→失敗
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