大相撲歴代理事・解説
  理事選解説

<1> 安泰期

@理事15名、年寄・検査役制を廃し、新たに全年寄+力士・行事代表各2名づつの公選による 理事選出制度を採用。
 公選初代理事長として時津風(元横綱・双葉山)を再任した。

A時津風理事長の逝去により、出羽海(元横綱・常の花)、時津風の2代理事長体制を支えた 出羽海(元前頭・出羽の花)が名実ともにトップに就任。平幕出身理事長は空前にして絶後だろう。 理事長就任に伴い部屋経営は養子縁組した武蔵川(元横綱・佐田の山)に譲り名跡を交替。
 双葉山逝去後の時津風も立田川(元横綱・鏡里)の一旦継承等二転三転の末、当初予定通り 大関・豊山の継承に落ち着き、一門総帥として31歳での理事就任となった。

B武蔵川政権2期目。兼務していたナンバー2ポストの事業部長を春日野(栃錦)に譲り、 次期理事長候補を対外的に明確化した。

C武蔵川が定年に。二所ヶ関(佐賀ノ花)主導で立伊連合の伊勢ヶ濱(元横綱・照國)擁立があったが 順当に春日野が理事長ポストを承継。前武蔵川は相談役として留まり、出羽支配が強化された。
 事業部長ポストは二所一門ながら出羽に近い花籠(元前頭・大ノ海)に。

D反出羽の頭目・二所ヶ関(佐賀ノ花)の逝去で後任は大鵬(元横綱・大鵬)との一門内の激しい争いの末、 二子山(元横綱・若の花)が就任。二所一門の2ポストとも阿佐ヶ谷系が占め、二子山は直ちに ナンバー3の巡業部長に就任した。

E立伊連合の伊勢ヶ濱、宮城野(元横綱・吉葉山)が逝去し、一方は順当に伊勢ヶ濱(元大関・清國)が継いだが、 もう一ポストは一門内で出羽に近いとされ監事ポストを差し替えられたこともある武隈(元関脇・北の洋)に。 立浪(元関脇・安念山改メ羽黒山)とともに一部屋から二人の理事輩出となったが、一門理事から 元横綱が消えたのは痛手だろう。
 また病身の立田川に代わり理事に昇格した伊勢ノ海(元平幕・藤ノ川改メ柏戸)の後任監事ポストを時津一門でなく、 二所一門本家筋の片男波(元関脇・玉乃海)が入り、阿佐ヶ谷系とのバランスを取る形とした。

F定年の花籠に代わり二所本家筋から大鵬が昇格。代わって二子山が事業部長に、出羽海が巡業部長に順当に昇格。
<2> 安泰期A(5一門二枠)

G立伊連合に代わり高砂一門が2枠に拡大、以降98年の大乱まで5一門理事2枠の派閥均衡内閣が続く。 これまで格は高いが執行部として運営にはタッチ出来ない審判部長を実に5期10年勤めた高砂(元横綱・朝潮)が巡業部長に昇格した。
 また大鵬に続き鏡山(元横綱・柏戸)が入閣、柏鵬揃い踏みとなった。

Hポスト変更もない全くの平穏。

I勇退と見られた春日野が新国技館柿落としまで政権を続けることとなり理事長七選。二子山を新設の「理事長代理」に遇し、 協会運営は二子山、対外交渉が春日野の実質的な総総分離体制となった。
 九重(元横綱・北ノ富士)が入閣してはみ出した春日山(元前頭・大昇)は監事に回り、又もや立伊連合枠を侵食することとなった。

J「遅過ぎたプリンス」二子山が理事長就任、「土俵の充実」をモットにー掲げたが「人間辛抱だ」の方が有名。 事業部長は次期理事長として出羽ノ海に。 春日野は定年前に理事を離れ、後に春日野を継ぐ中立(元横綱・栃ノ海)に交替し、 中立の監事後任として北の湖が早くも登場。出羽は監事→理事の昇格システムが旨く機能している。 一門の結束の強さの証明か。

K春日山の定年に伴い高砂の監事ポストは立伊連合に返却。

L二子山退任で出羽ノ海が順当に理事長昇格。時津風が事業部長となったが出羽ノ海より 年長とのこともあり出羽政権の伸長によっては次期理事長は微妙な状況だった。 二子山に代わっては二所本家筋から佐渡ヶ嶽(元横綱・琴櫻)が昇格し異例の3審判部長制。 後任監事には二子山の実弟・藤島(元大関・貴ノ花)が昇格し、間もなく二子山を継承する。

M鏡山(元横綱・柏戸)の退任に伴い4期続いた鏡山・陣幕の両審判部長が交替。 新九重(元横綱・千代の富士)との名跡交換で部屋経営を譲り、理事長に意欲満々の 陣幕は新設の広報部長に就任したが、巡業部長が取れなかったためか「何をやるのか分からない」 と不満顔だった。
 病身の鏡山の後任には時津風部屋付きの枝川(元関脇・北葉山)が就任。80年の立浪・武隅以来の 同部屋からの複数理事就任となった。

N義父に習って部屋経営を新出羽ノ海(元関脇・鷲羽山)に譲り理事長職に専念した境川3期目。 二所本家を継承出来なかったことと、引退間もなく脳溢血に倒れたことで永年地方場所担当の 不遇に据え置かれた大鵬が退任に追い込まれ、代わって二子山が昇格。若貴ブームに乗って 早速ナンバー3の巡業部長ポストを占める厚遇振り。7月に前二子山の脱税問題で 一旦解任されるが2年後にはあっさり再任された。
 85年の日航機墜落で妻子を亡くした伊勢ヶ浜だが後妻の不評もあり退任、 木瀬(元前頭・清乃盛)に交替した。以降、木瀬退任後の若藤(元前頭・和晃)と 立伊連合理事は一門のベテラン・ポストと化している。
<3> 第一次動乱期

O世に聞こえた「平成10年の大乱」。境川の巡業・親方株制度改革に若手親方が猛反発。 とくに高騰する親方株から脱税問題、また人材流出の恐れがあるとして協会が親方株を 一定数プールする新提案は、大枚を叩いて生活保障を得た親方陣の総スカンを食らい、 反乱分子・高田川が理事選出馬を表明、更に親方数の多い二所一門からも 間垣が立候補し一門がこれを追認する形となった。これにより理事選挙制導入以来初の選挙戦に突入した。
 票数の少ない高砂一門は高田川を破門、共倒れを恐れて一門立候補者を一人に絞ることとしたが、 本家高砂(元小結・富士錦)が勝利。破れた陣幕は次期理事長の可能性が断たれた形となり 即座に廃業する余波を経て、計11人で争われた選挙戦は基礎票2の高田川が当選し、 時津一門の枝川(元関脇・北葉山)が落選する波乱で決着が付いた。如何に若手親方層の反発が 大きかったかが伺われよう。
 この責任を取り4選予定だった境川は理事長を辞任したが、更に理事会で世代間闘争となり 一旦は挙手採決で北の湖が多数、更に記名投票で5対5の同数という過程を経て、 漸く北の湖が身を引く形で時津風理事長の就任となったが、協会改革が頓挫したのは言う迄もない。

P前回で懲りたか時津、高砂両一門が組み、高砂は前回同様理事立候補者を一名とする代わりに 八角(元横綱・北勝海)で監事ポストを確保する作戦に出たが、結果は再び高田川に苦杯を嘗め、 再び時津から伊勢ノ海(元関脇・藤ノ川)が落選。監事選も立伊連合の武隈(元関脇・黒姫山)が涙を飲んだ。
 元関脇・板井の八百長告発等に対抗するため元理事長としては異例の境川の24年振りの審判部長復帰が話題となった。

Q3回連続の選挙となったが、今回は当選9人が綺麗に10票、9票の武蔵川(元横綱・三重ノ 海)対湊(元小結・豊山)の決戦投票も順当に武蔵川が勝ち、出来レースに戻った感が強い。
 これにて勢力分布は出羽、二所が3、立伊2、高砂、時津1。時津風の定年で北の湖新理事長が誕生、 二子山が離婚騒動や長男(元横綱・三代目若の花)の廃業等で打撃著しく、 九重(元横綱・千代の富士)に共感が少ないなか超長期政権が嘱望されたが、そうは問屋が卸さなかった。
<4> 再安泰期

R理事は4期振り無投票で第二次北の湖政権発足。理事再選直後に貴乃花に部屋経営を委譲し 協会職に専念する二子山が事業部長を得た。監事は立伊連合の友綱(元関脇・魁輝)が一門内の 次期理事候補を狙って出馬したが、三保関(出羽)・秀ノ山(二所)・前回理事選に出馬し今回は 時津高砂合同候補となった湊が順当に入閣した。

S5期10年振りに理事・監事とも無投票と漸く落ち着いた。立伊連合は高齢の若藤に替わり友綱、 二所一門は癌で逝去した二子山と定年の押尾川に替わり秀ノ山の昇格と阿佐ヶ谷勢から放駒、 監事の後任には不知火と順当無風。武蔵川が事業部長に昇格し、24年振りに同一一門が 上位2ポストを占めることとなった。

21横綱・朝青龍の二場所連続出場停止、時津風リンチ事件等問題を抱えながら二期連続の無投票。 定年の長谷川に替わり二所一門総帥ながら継承騒動や親方株の担保入れ問題により蟄居の続いていた 二所ノ関が還暦を前に漸くの入閣。朝青龍の監督責任を取る形で高砂が退任し、傍流の悲哀を 味わってきた九重が前九重・陣幕の退任廃業以来10年振りに理事ポストを得た。
 前年脳出血で倒れた間垣は留任したが、8月に所属力士の大麻問題で引責辞任。事件は更に 拡大し北の湖理事長の辞任、武蔵川新理事長主導による初の外部理事・監事の招聘へと 相撲協会執行部を大いに変貌させるに及んだ。
<5> 第二次(貴乃花)動乱期

22機構改革後初の理事選は、貴乃花親方の出馬で四期振り投票に。
 貴乃花派7名の離脱に伴い二所一門が候補者を減らした替わりに時津風一門が同じく 少数派閥の高砂一門から票を融通して貰い、副理事ポストを高砂に譲る前提で二人を 立てて自派の引き締めと貴乃花への刺客としたことから投票に縺れ込んだ結果が、 立浪一門からの二票流出が決め手になり大島親方の落選、貴乃花逆転当選で幕を閉じた。
 勇退の伊勢ノ海に替わり出羽ノ海が事業部長と出羽一門が再びワンツー・フィニッシュとは 矢張り最大派閥の為せる業たろう。

 しかしながら親方・現役力士の野球賭博関与問題で外部の村山氏が理事長代行に就任の挙句、 体調を崩した武蔵川が再任後半年で辞任、辛くも放駒の昇格で決着したが、又もや貴乃花の反乱で 放駒対北の湖の投票(8対4)に持ち込まれるなど波乱の再出発に。
 この過程で九重が事実上のナンバー2に浮上した。

23八百長問題の責任を取る形で一旦理事職も辞任した北の湖が定年退職の放駒に替わり 史上初の理事長復辟。時津・高砂は連携して辛くも三ポストを確保したが、 基礎票7の貴乃花に11票で楽勝を許し、九重は最下位7票当選で一転理事長に向け赤信号が灯った。
 また立浪一門は一問内調整が付かず三候補が乱立。投票直前に伊勢ヶ浜(元大関・旭富士)が 辞退する形となったが、現職の友綱が落選。総帥であるべき立浪親方が貴乃花G入りし、 一門自体が春日山・伊勢ヶ浜連合を経て伊勢ヶ浜一門に改称されるドタバタ劇に及んだ。

 なお雷は不正経理問題にて12/9/20付辞任、補選により無投票で伊勢ヶ浜が選任された。

24前回落選した友綱が伊勢ヶ浜一門外の無党派票を得て復帰、5票に留まった九重が落選の波乱に。 このため巡業部長の尾車を飛び越え、同じ高砂旧九重系の八角が事業部長に躍進、 次期理事長の有力候補に躍り出た。
 なお貴乃花グループは正式に一門として認められ、ここに六一門が成立した。

 15/11/20北の湖理事長が急逝。12/18には理事長代行職にあった八角が新理事長となる。 兄弟子・九重は理事復帰も叶わず半年後に急逝しており、まさに明暗を分けた。 但し、北の湖の後継者を自任していた貴乃花はじめ外部委員を含め5理事が反対する苦闘の船出となった。

25九重は体調不良もあり直前に出馬辞退、伊勢浜一門からの第二候補・高島(元関脇・高望山)が 6票で落選し、現職の伊勢浜が予想外に10票を得たのは貴乃花グループの支援が囁かれた。 現に事後の理事長選では北の湖後継の山響とともに伊勢浜は貴乃花に一票を投じている。
遂に出羽一門は四枠となったが、四人一斉の世代交代にも拘わらず元横綱・大関がゼロとは 最大派閥の今後にとっては極めて憂慮すべき顔触れだろう。
なお副理事は玉ノ井対井筒の決戦投票の結果、玉ノ井が残った。

27元横綱日馬富士の傷害事件において伊勢ケ浜が責任を取って辞任、 反協会的言動の際立った貴乃花が解任、と理事二人が欠けたが、 選挙戦は伊勢ケ浜の代わりに前回落選の高島が立つ。貴一門からはナンバー2の阿武松が候補となり 強行出馬した貴乃花は二票と惨敗する。副理事選でも貴一門の錣山(元関脇・寺尾)が落選した。
更に一門も"阿武松グループ"を経て解散、貴乃花は九月に相撲協会を退職し、 ここに一代年寄は全ていなくなるとともに、5期10年に亘った「貴の乱」も漸く一段落を迎えたのである。
<6> 補遺 一門一覧

出羽の海一門
 戦後の歴代理事長(掲載表前の出羽の海(元横綱・常の花)を含む)11名 の内、6名を数える最主流派、相撲界の保守本流である。
 分家許さずの方針により、本家・出羽海、唯一の例外として横綱・栃木山の創設した春日野、 大阪相撲より一門に加わった三保ヶ関の3部屋体制が長く続いたが、 横綱・三重ノ海の武蔵川部屋独立以降、他一門同様に拡大路線となった。
 本分の土俵でも、時津風理事長(元横綱・双葉山)の懐刀から後任理事長に 就任した出羽海(元前頭・出羽の花)を除くと歴代の一門出身理事は全員元横綱だったが、 北の湖・武蔵川両政権が不祥事に見舞われ、再登板した北の湖も病に倒れた後、 理事は四人に増えたが最高位が関脇では今後が危ぶまれる。 副理事を譲って文字通り待機の玉ノ井と、藤島の両元大関の執行部入りが待たれよう。

時津風一門
 横綱・双葉山が一代で創設して以来、出羽一門とともに歩む協会主流派だったが 昨今は存在感が薄い。始祖・双葉山と初の大学出身大関として時津一門総帥となった時津風(元大関・豊山)が理事長を務めた。
 高砂はじめ他一門との連携で遣り繰りしてきたが、親方株の流出も少なくなく理事選落選候補を続出させている。

伊勢ヶ浜一門(立浪・伊勢ケ浜連合→立浪一門→春日山・伊勢ケ浜連合→伊勢ケ浜一門)
 名門立浪、伊勢ヶ浜、高嶋、大阪の朝日山の4系統の連合体で理事選開始時は理事枠3かつ 全員が元横綱という隆盛を誇ったが、伊勢ヶ浜(元横綱・照國)、宮城野(元横綱・吉葉山)が 相前後して亡くなって以降、理事就任者が歴代関脇以下で地方場所担当に甘んじることに。
 元大関・清國由来の伊勢ケ浜部屋が閉鎖され立浪一門になったが、総帥たる立浪が貴乃花グループ入りして 春日山・伊勢ヶ濱連合。更に春日山改メの雷理事が不倫退職し、伊勢ヶ浜一門と変遷が激しい。
 元来、寄り合い所帯のため中間派色が強いが、嘗ては二所・高砂と反出羽連合を形成したことも。

高砂一門
 明治期の協会主流派だが出羽に主導権を奪われて以来、反主流派の雄。初の青い目外国人関取 (元関脇・高見山)創出、出羽海の代替わりに反発し独立、破門された九重(元横綱・千代の山)の 一門招聘など反主流に相応しい行動力も見られたが、理事ポストの減少のなか高砂本家筋をする余り、 陣幕(元横綱・北の富士)、九重(元横綱・千代の山)といった理事長候補を喪わざるを得なかった。
 幸か不幸か朝青龍問題で高砂(元大関・朝潮)が一線を退いたため、ダークホースの八角で一門初の理事長ポストが 回ってきたのは幸運だったろう。

二所ヶ関一門
 二所ヶ関(元横綱・玉錦)が一代で創設も現役死。後のNHK解説でお馴染みの元関脇・玉ノ海が継承後、 積極的な分家方針で今日の隆盛の基礎を築いた。 が反出羽の頭目だった二所ヶ関(元大関・佐賀ノ花)の死後、分裂騒動で本家筋は低迷。 一方で花籠(元前頭・大ノ海)、その弟子の二子山(元横綱・若ノ花)に連なる「阿佐ヶ谷系」が 春日野(元横綱・栃錦)主流派入りし、事実上二系統に分裂した感があった。
 更に二子山(元大関・貴ノ花)の急逝、反逆児間垣(元横綱・二代若ノ花)の退任等を経て、 「貴ノ花グループ」が独立し、勢力を後退させた。
 幸い貴乃花一門が解散し大半が復帰したため、ほぼ同世代の芝田山を筆頭に八角一強に対抗して貰いたい。

貴乃花一門
 一代年寄・貴乃花はもう一期待てば二所一門内の代替わりで理事当選が確実だったが、 2010年に脱派して出馬、当選後は貴乃花グループを名乗った。 2014年には正式に一門として認められたが、貴乃花解任後の18年理事選では阿武松を一門候補に。 貴乃花落選後は阿武松グループとされたが、大半が二所に吸収される形に落ち着き消滅した。
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