青田  昇 42巨-43,46急-48巨-53洋-59急,62神コ-63,65急コ-67,72洋コ-監代-72w,73洋監,(80巨コ-80w)
現役時代は巨人を起点に大洋、阪急を出入りした元本塁打王。巨人入団時の監督、藤本定義の下で阪神コーチを務め優勝。西本阪急では長池を本塁打王に「改造」するとともに、またもや優勝し「優勝請負人」の異名も。が72年古巣大洋の監督代理は14試合でダウン。翌年正式に監督となったが1年で退団した。79年末、長嶋巨人のヘッド・コ−チに返り咲いたが、暴力団等との交際に関する所謂「青田舌禍事件」でキャンプ・インを前に退団を余儀なくされたのは惜しまれる。97年逝去。
一枝 修平 64中-72近-74神-75神コ,78中コ-80,85神コ-87,90中コ-91,97神コ-98
好守の遊撃手として鳴らしたが水原監督と合わず近鉄へ。現役最後の1年を過ごした阪神で吉田義男との縁が出来た。都合3回の吉田政権でヘッド格。吉田の身代わりとして阪神監督に擬せられたことも多く、89年村山監督退任時は「決定報」の流れた後に辞退している。
植村 義信 53毎-62コ-74急コ-79ヤコ-79w,80日コ-84監-84w,87急コ-89ロコ-92巨コ-94,97ロコ-00
50年代毎日の主力投手。引退後は古巣毎日を中心に、上田、広岡、大沢ら大物監督に仕えた。投手指導には定評があり65歳までコーチを務めたが、一方で練習の厳しさでも知られ、大沢の後を次いだ日ハム監督はキャンプから休日なしを謳って最下位低迷、実質2ヶ月で解任された。
岡田 悦哉 68広コ-75平ス-78二監-84,87中二監-90ス-01,03神ス-
明大、丸善石油を経て63〜64年は丸井監督。68年根本広島にコーチとしてプロ入りした異色の経歴の持ち主だが 根本人脈のひとりとしてアマ人脈を活かし西武黄金時代の礎を築いた。 星野明治内閣の一員として中日へ、更に齢古希を超えて阪神へと運命を伴にした。
岡本伊三美 51南-61南コ-62w現役復帰-63,65南コ-66サコ-68南コ-73神コ-74,82近コ-84監-87,95近常務-96専務・代表-00
南海百万弗内野陣のセカンド。飯田徳治(監)とともにサンケイに移り飯田退陣とともに南海復帰。以降は阪神−近鉄と大阪一筋の野球人生を歩み、近鉄監督時代には後一歩の所で優勝を逃がした。退陣後、背広で復帰し代表を務め70歳を目前に退任した。
黒江 透修 64w巨-75巨コ-78,81中コ-84西コ-85,90西コ-94,96ロ二監,98ダコ-99助監-00,01浜コ-02w監代-02,08西コ
V9巨人の遊撃手。78年の巨人V逸に伴い反長島の烙印を押され退団。82年、近藤(貞雄)中日で優勝し仇を討った。以降、広岡、森、広岡GM、王とV9巨人閥に仕えたが采配は85年の代理監督1試合のみ。王ダイエーの助監督で2年連続Vを手土産に01年には再び森猊下の横浜へ。万年監督候補から目立ちたがり屋の名参謀へと格上げされ、最後には正式に14試合の監督代行を務めた。08年再び西武へ。
河野 旭輝 54急-61中-64急-67西-68コ,72ヤコ-74日コ-76ロコ-81神コ-84ヤコ-85神コ-88二監-89コ-92二監-94
福本以前のパのシーズン盗塁記録保持者。現役最後の年を過ごした西鉄で中西太に出会い、以降中西の懐刀としてヤ−日−神−ヤと渡る。85年以降は阪神に腰を据え、コーチ在籍は連続23年に至った。
小森 光生 54毎-62近-67近コ-68広コ-71,74ヤ二監-79,82洋コ-84
毎日・近鉄の内野手を経て広島で早大同期の広岡達郎と同じコーチとして再開。 ヤクルトでは荒川博監督以下、広岡・小森・沼沢康一郎三コーチの「早大カルテット」で 話題を為した。
近藤 昭仁 60洋-75コ兼任-76コ-79ヤコ-79w,82西コ-86,89巨コ-91,93浜監-95,97ロ監-98,06巨コ
60年新人での日本シリーズMVP獲得が有名。79年にヤクルトコーチに就任、広岡人脈入りしたがシーズン中に球団から休養命令が出て結果、広岡監督の辞任に繋がった。広岡西武、第二次藤田巨人の3塁コーチャーを務めた実績を買われ、93年大洋史上3人目の生え抜き監督として凱旋復帰。97年には広岡GM退団後のロッテ監督に。「広岡野球は卒業」と堂々宣言したが連敗の日本新記録を樹立、退任の弁は「もっと強いチームで指揮したい」だった。06年には原巨人のヘッドコーチ就任も伊原新ヘッドに押し出される形で1年で辞任を余儀なくされた。
権藤  博 61中-69,73中コ-83,88近コ-89,91ダコ-93,97浜コ-98監-00
「権藤、権藤、雨また権藤」で入団から2年連続30勝も肩を痛め4年で内野手転向、準レギュラーを3年続けてから投手復帰後引退。長く中日コーチを努めた後、近鉄で優勝も仰木監督と対立し退団、横浜では監督として38年振りの優勝を成し遂げた。自身の経験から「肩は消耗品」が持論。
佐藤 道郎 70南-78洋-79,84ロコ-86,91中コ-93近コ-96,04中二監-06
新人で最優秀防御率を獲得し、救援投手として野村南海の切り札に。野村退陣とともに大洋に放逐され2年で引退後は、稲尾、星野、鈴木啓と何れも投手出身監督に請われ投手コーチを歴任した。一匹狼の感が強いが04年には同タイプの落合監督下に中日二軍監督に就任した。
佐野 嘉幸 62映-72南-75w広-80コ-86韓OBコ-87洋コ-91日コ-96二監-01パドレススカウト-04ロ-
東映から江本とともに野村南海へ。ここで古葉と出会い75年シーズン中に広島移籍し初優勝に貢献した。以降、広島コーチを経て日ハムでは10年5代の監督に仕えた。韓コーチ、米スカウト経験も。
柴田  猛 63南-73コ兼-76広-77コ兼任-79広コ-81南コ-82神コ(-w,83-)-85南コ-89オコ-91ダコ-92,94ヤコ-96神コ(-w監代)-97中フロント-00巨編成部-06台湾和信コ
現役時代は野村の影に隠れたが、その頭脳には高い評価があり28歳でコーチ兼任。82年には審判への暴力事件で島野育夫とともに無期限出場停止(翌年解除)となり一躍脚光を浴びた。ブレイザー(南)・野村(ヤ)のほか土井正三(オ)・藤田平(神)ら新人監督のお目付役となったことも。背広に着替えてからも中日・巨人で文字通り「007」として活動した。
島野 育夫 62中-68w南-76神-81神コ(-82w,83-84),86中コ-92神コ-95中コ-w代監-96コ-02神コ-04管理部長-05コ-
中日を皮切りに阪神で現役を終え、以降神・中を往復。82年には審判への暴力事件で無期限出場停止になる"荒くれ者"の面も(翌年解除)。また95年には翌年からの第二次星野政権への露払いとして入閣し、予定通り途中休養した高木監督の後釜も。更に02年も中日との契約が残っていたが「亡き星野夫人との契り」を謳って、星野移籍に殉じた。
杉下  茂 49中-59中監-61毎コ兼-62コ,64神コ-66神監-66w,68中監-68w,76巨コ-80,93西コ-95
中日のエース「フォークの神様」も引退翌年からの監督は2年で退陣。61年大毎にコーチ兼任で復帰するが同年限りで現役引退した。以降、藤本総監督の元で阪神、68年にはキャンプイン後に体調不良で退団した西澤前監督の後を受け急遽中日の指揮を執ったが、何れもシーズン半ばで辞任と奮わなかった。76年長嶋巨人の投手コーチに就任し、投手交替の度にヒョコヒョコ歩く姿が揶揄されたがV2に貢献。天敵・巨人入りしたため地元ラジオ局からは出入り禁止になったという。
須藤  豊 56毎-62巨-69巨コ-75,80洋二監-81,83巨コ-86二監-90洋監-92w,93巨コ-95,97西コ-99,04巨コ-05
巨人移籍で運が開け31歳でコーチ就任。長嶋政権初年の最下位の責任を取り野に下ったが、王政権の二軍監督でイースタン優勝を重ねた手腕を買われ90年には大洋監督に。漸く日本プロ野球の指導者も大リーグ型にと持ち上げられたが2年半で休養、翌年巨人コーチに復帰した際は「体調不良」が休養理由だっただけに芳しくない声も。04年には三度目のお務めも優秀の美は飾れず。
関根 潤三 50近-62コ兼-65巨,70広コ,75巨コ-76,82洋監-84,87ヤ監-89
投手で65勝、打者で千本安打した逸材。近鉄第一期の幹部候補生から現役最後の1年を巨人で代打の切り札として過ごしたことが野球人生に大きなプラスに。日大三中時代からバッテリーを組んだ根本(睦夫)広島の後は第一次長嶋政権の何れもヘッド・コーチ。大洋監督時代には「長嶋招聘の受皿」を公言して話題を喚んだ。女性的な笑顔と独特な語り口でブラウン管でもお馴染み。
高畠 康真 68南-73コ-78ロコ-88,90ヤコ,91ダコ-95中コ-99オコ-02ロコ
野村青年内閣の懐刀として28歳でコーチ就任。ともにロッテに移ると腰を落ち着け、野村のヤクルト監督復帰でヘッド格に就任したが1年で「野村監督は変わった」との言を残し訣別した。02年のロッテを最後に背広に着替え高校教諭に転身したが、04年60歳で逝去。
高代 延博 78日-89広,90-広コ-99中コ-02日コ-03ロコ-04中コ-08,10ハンファ(韓)コ-11オコ-12,14神コ
広島移籍後、法政の先輩山本浩二内閣を皮切りに、三塁コーチからヘッド格と歴任。09,13年にはWBC日本チームのコーチも務めた。
田宮謙次郎 49神-59大-63,69中コ-70東コ-w監代-71監-73w,88神コ-w
史上初の完全試合目前の九回二死から安打を打たれ、その後肩を壊して打者転向が功を奏し、毎日の引き抜きで崩壊した元ダイナマイト打線の中核を占めた。新人長嶋に競り勝ち首位打者を獲得した58年オフ、壮烈な獲得合戦の末、十年選手の権利を行使し毎日へ。引退後の恩師・松木の後を受けた東映監督は奮わず、阪神OB会長に専念と思われたが、第二次村山政権誕生で30年振りに復帰、還暦の体に鞭打ち一塁ベースコーチに立つなど奮闘したが、敢え無く2ヶ月でダウンした。 00年故郷茨城県下館市会議員に当選。
寺岡  孝 65広-70南-73南コ-76広コ-86南コ-87洋コ-89,91三星(韓)コ,93俊国(台)コ-95ダコ-97二監,99味全(台)コ,03中信(台)コ-05
広〜南〜広コースは古葉(竹識)と同一。一足先に古巣に帰った古葉の後を追い広島V2に貢献。古葉大洋のヘッドも務めた。 韓国、台湾を経て95年には王ダイエーのカープ内閣(他に達川,高橋慶)を司取ったが内閣改造でVを見る前に退陣。以降はすっかり「台湾の人」となった経歴は異色の一言だ。
中西  太 52西-61監兼任-69,71ヤコ-74日監-75,79神コ-80w監代-監-81,83ヤコ-83w監代-83w,85近コ-90,92w-巨コ,94ロコ-94w監代-95オコ-97,(99ヤ・アドバイザー-01)
61年28歳で青年監督に。引退後は恩師であり義父である三原監督、三原社長の下にヤ、日と渡り指導者の道を歩んだ。特筆すべきは監督代行歴の多さ。ヘッド格で入閣し前任者の休養後お鉢が廻ってくるというパターンで氏の人の良さを伺わせる。体調を崩し退団に至るのも恒例でヤ監督代行は14試合でダウンした。代行含め6球団で指揮を採ったが寧ろ打撃コーチとしての評価が高く、若松、真弓らを育てた功績は大きい。また近、オと嘗ての部下、仰木彬に仕え両球団を優勝に導いた。99年からは弟子の若松監督の後盾も。
長池 徳士 66急-80コ-82,85西コ,87南コ-88,93浜コ-95,97ロコ-98
青田昇に長距離打者に育てられ本塁打王3回。肘を痛めた晩年は指名打者に廻ったが三拍子揃った外野手でもあった。36歳で指導者の道に入ったが85年広岡西武の最終年に入閣し広岡人脈入り。この縁で近藤昭仁監督の下、横浜、ロッテとヘッド格の打撃コーチに。
根本 陸夫 52近-57,62-66近コ,67広コ-68監-72w,78ク(-西)監督-82西管理部長-92,93ダ監-94/94代表-99社長
西武の基礎を築いて広岡を監督に招き管理部長という名のGMに。屈指のスカウト力で西武黄金時代の立役者となった。93年にはコーチの不祥事等から旧福岡ライオンズ人脈が一掃され、新生ホークスで66歳の新監督。ここでも王を招聘し、スパイ疑惑を乗り切った99年には球団社長に登り詰めたがシーズン中に急逝。ダイエー初優勝を見ることなく旅立った。日本球界史上、唯一にして最大のGM。
広岡 達郎 54巨-61コ兼任-65選手,70広コ-71,74ヤコ-76w代監-監-79w,82西監-85,95ロGM-96
川上監督との対立から65年、国鉄へのトレードを蹴ってコーチの肩書きを剥奪される。雌伏13年、ヤクルトに球団史上初のVをもたらす。根本元ダイエー社長との縁は広島から、これが西武の3回の優勝で花咲いた。「管理野球」の権化と恐れられ、2度の監督退団時との球団との対立、また皮肉な口調も相まって人気は今ひとつだったが球界の功労者だろう。88年オフには巨人次期監督に擬せられたが王留任を主張し実現せず。95年には日本初のGMに就任したがバレンタイン監督解任問題など2年で頓挫したのは惜しまれる。
広野 功 66中-68西-71巨-74中,78中コ-84ロコ-86,88西コ-97ロコ-01ロ編成部長-03,05楽編成部長-GM代行
慶応からドラフト1期生として中日入りも、2年で西鉄に放出され黒い霧事件の影響も被り、巨人移籍後も揮わなかった。引退後は古巣中日から稲尾の縁でロッテ、森西武のコーチを経てロッテに戻って後編成部長。05年には新生楽天にてキーナートGM退任後GM代行を務めたが不振の責任をとる形で1年で退団した。
福田 昌久 57南-63巨-67巨コ-75,77日コ-79ロコ-81,84中コ
V9前夜、巨人のONに次ぐ5番打者漁りの第1号として迎えられたが間もなく引退し長く二軍コーチを務めた。この間、同じくコーチとして在籍した山内一弘の薫陶を受け、日ハムを挟んで山内監督下のロッテへ。84年中日監督に就任した山内の下へも馳参じたが、体調を壊し休養。翌年逝去したのは惜しまれる。
別当  薫 48神-50毎-53w監兼-56監-59,62近監-64,67洋コ(67w監代)-68監-72w,73広監,77洋監-79洋代表-80
六大学のスターから阪神ダイナマイト打線の中核も、藤村富美男との両雄並び立たずで二リーグ分裂とともに新生・毎日へ。平和台騒動(遅延行為から暴動に)の責任を取って退陣した湯浅監督に代わり32歳で監督兼任に。以降、長き監督生活を歩むも1000勝監督の中では唯一、栄冠には恵まれなかったが、近鉄時代には土井正博を「18歳の四番打者」に抜擢するなど打撃指導には定評があった。最後は生え抜きの土井淳を監督に大洋球団の実質GMとなったが2年で退陣。ダンディーで長く眼鏡CMの顔を務めたことでも有名。
水谷 実雄 66広-83急-85,87急コ-89広コ-94近コ-95監代-96ダコ-98中コ-01,03神コ-06
ドラフト1期生として広島入り。阪急移籍1年目には交換相手の加藤秀司より劣るという声をはね除け見事打点王に。翌年頭への死球禍で引退後、打撃コーチ歴が長い。95年には同期の鈴木啓司監督休養の後を受け代理監督も。星野猊下に入った後、ダイエー・スパイ疑惑の首謀者と揶揄され身を引いたが、03年再び星野政権下の阪神に。
宮田 征典 62巨-69,75巨コ-77日コ-82,85西コ-87巨コ-96,98中コ-99巨コ-01
心臓の持病のため救援に回った「8時半の男」。現役生活は短く75年に巨人コーチで球界に復帰した際、すっかり白髪に転じてその間の苦労が推察された。98年星野中日で優勝を演出し長嶋巨人に凱旋したが2年間は不可解な巡回コーチに留まり、01年久々のベンチ入りも長嶋を御する迄には到らず。日テレで朝の"御意見番"を務めた際には、流石に野球以外のコメントは苦しそうだった。06年逝去。
森  祇晶 61巨-72コ兼任-74,78ヤコ-79w,82西コ-84,86西監-96,01浜監-02w
V9巨人の名捕手で、第一次長嶋政権でコーチ残留の無かった鬱憤を広岡ヤクルトの初Vで晴らした。参謀時代は「森KGB」等暗いイメージだったが、85年広岡と訣別後、翌年監督で西武復帰。名も昌彦から改め、名将の名を欲しいままにした。99年オフには長嶋解任−森巨人監督誕生目前で白紙に。横浜では予想通り水が合わずに終わった。
森下 整鎮 52南-67南コ-69中コ(76二監)-78洋コ-80,8南コ,91台湾兄弟コ-92監
アキレス腱を左右で計三度断裂した熱血内野手から野村内閣誕生で中日へ。水原・与那嶺政権でコーチ・二軍監督を務めるが74年優勝時の三塁コーチスボックスにおける"ピストンサイン"が有名。 86年杉浦南海に復帰も一年で去りのちに渡台もした。
八木沢荘六 67京-76コ兼任-80コ-81西コ-92ロ監-94w,95浜コ-97巨コ-99神コ-01,04オコ,(05愛媛コ-06東京ガスコ-)08ヤコ-
31歳でコーチ兼任。78年途中には一旦コーチ専任となったが後期に復帰し翌年迄投げた。広岡−森両監督の元で西武黄金時代の投手コーチ。92年には前任者金田の後押しで古巣の監督に就任したが2シーズン半で敗退。以降はセに転じて手堅くコーチ業を続けていたが、04年伊原オリックスでパ復帰。愛称は「ロクさん」。
山内 一弘 52毎-64神-68広-71巨コ-75神コ-77,79ロ監-81,84中監-86w,87巨コ-91オコ-93,95神コ,98台湾和信コ
毎日の本塁打王から小山正明との「世紀のトレード」で阪神へ。広島経て引退後、川上巨人の打撃コーチに就任したことから指導者の道が開けた。中西太と並ぶ球界に名立たる名コーチで、監督としてもロッテで半期優勝2回、中日でも巨人戦に強く2位になっている。98年には台湾和信コーチ。教えだしたら止まらない、愛称「かっぱえびせん」健在だ。
山本 一義 61広-74コ兼-77広コ-80近コ-82ロ監-84南コ-85,94広コ-98
弱小期の広島の主力。打撃指導には定評があり、西本人脈に入った後その推薦で近鉄コーチからロッテ監督に横滑り。監督としては失敗したが更に南海コーチに異動の経歴は珍しい。最後は古巣広島に帰り三村監督下のヘッドコーチを務めた。
与那嶺 要 51w巨-61中-62コ兼-63コ-66京コ-70中コ-72監-78巨コ-81南コ-83西コ-85日コ-88
巨人第二期黄金時代のリードオフマン。川上監督に中日に追いやられ濃人ロッテを経て雌伏十余年、水原中日を継承し74年遂にV9巨人から優勝の座を奪い取った復讐譚は有名だろう。しかしながら77年オフに中日監督を解任されると長島巨人の二軍コーチと二階級特落ちも喜んで受け入れ、以降ブレイザー南海を挟んで広岡、高田と巨人人脈の良き参謀役を務めユニフォーム生活は連続38年に及んだ。
若生 智男 56毎-64神-75広-77広コ-79ロコ-84神コ-85,87ロコ-88神コ-89,91ダコ-93浜コ-96
山内−小山の世紀のトレードに付随して互いの投打の穴を埋めるためにソロムコとの交換で阪神へ。 75年には広島移籍も交換相手の安仁屋が防御率一位で割を食った形だが、以降阪神を基盤に山内ロッテ等で 長らくコーチを務めた。87年ロッテ復帰も契約期間を残したまま翌88年村山阪神に移籍したため契約金返還に至ったことも。 間もなく古希を迎える07年現在もマスターズリーグ大阪ロマンズのコーチ兼選手として現に120kgを速球を 投げているのは驚異的だ。

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